郊外マンションはオワコンなのか? -都心タワマン暴騰の日陰で-(1)

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はじめに

タワマン。それは現代の東京における、最もわかりやすい「欲望の塔」だ。

憧れと、嫉妬。いまやタワマン*は、その両方を一身に浴びる都市の象徴になった。 特に都心部では、この10年で価格が残酷なまでに高騰し、「人気の高さ」は数字として証明されてしまった。「成功者の証」として崇められる一方で、そのきらびやかさは強烈なアンチを生む。だからこそ、週刊誌や漫画の格好のネタになり、「タワマン文学」のような“盛られた”物語として消費されもする。

けれど、外野が「見栄だ」「虚栄心だ」と騒いでいる間に、住んでいる人たちはもっとドライだ。 駅直結の圧倒的な時短、鉄壁のセキュリティ、そして資産価値。彼らにとってタワマンは、単なるブランド品ではなく、居住の実需も資産形成も兼ね備えた「もっとも合理的な生存戦略」なのだ。

*タワマン:法的に明確な定義はないものの、一般的に 20 階建て以上で高さ 60m 以上の高層マンションを指す [1]。典型的な建物の構造は、真上から見下ろすと中央に大きな吹き抜け(ボイド)があってロの字型構造になっているボイド型であ る。住戸はこの吹き抜けを囲むように配置され、角部屋を除けば、各住戸の開口部は東・西・南・北の 4 方向のいずれかに向いたものとなる。また本稿においては、特に断りのない限り分譲マンションを指すことにする[1]。

なぜ私たちは、ここまで「都市」という場所に吸い寄せられるのか。

その答えは、現代日本の産業構造の変化にある。 いまや経済の7割は、「モノ」ではなく「サービス」だ。美容院も飲食店も、そしてホワイトカラーの商談も、その場で会って、その場で価値が生まれて消える。「生産と消費の同時性」ってやつだ。 こうした世界では、人が密集している場所ほど強くなる。移動コストが下がり、出会いの数だけ生産性が上がる。つまり、都市という空間そのものが、私たちのパフォーマンスを強制的に引き出す巨大な“装置”になってしまったのだ。

もちろん、東京が日本の全てじゃない。けれど、東京は人口も富も情報も飲み込み続ける、日本の未来の実験場だ。 だからこそ、その中心にそびえ立つタワマンを見れば、私たちのライフスタイルや欲望がどこへ向かおうとしているのかが見えてくる。 今回は、この巨大な塔を巡る問いを立ててみたい。 「これからも、タワマンは最強であり続けるのか?」と。

首都圏の住宅供給史(1)-戦前の住宅供給-

「郊外」という発明、そして「団地」という実験——東京圏住宅史の知られざる起源

1. 住宅政策の誕生:それは「慈善」ではなく「危機管理」だった

そもそも「ハウジング*(住宅供給政策)」という概念の起源をご存知だろうか。その源流は19世紀イギリスの慈善事業にあるが、日本において国家が重い腰を上げたのは20世紀初頭のことだ。 トリガーとなったのは、第一次世界大戦末期の工業化と、それに伴う爆発的な都市人口の増加である。1910年代、深刻化した住宅不足という「危機」に対し、国家は初めて本腰を入れた介入を余儀なくされた。

1918年、原敬内閣による「小住宅政策要綱」の策定。続く1919年の都市計画法および市街地建築物法の公布。これらは単なる法律の制定ではない。公益住宅や組合住宅という「制度的枠組み」を通じて、国家が国民の住まいを管理・供給するシステムが本格稼働した瞬間であった。 一方で、市場には新たなプレイヤーが登場する。「サラリーマン」や「自由業」といった新中間層である。彼らが求めたのは、単なる雨風をしのぐ箱ではない。「量」から「質」へ。彼らの欲望は、「モダンライフの象徴」としての郊外住宅地を生み出していくこととなる。

*ハウジング:ハウジングとは、さまざまな概念から成るが、原義的には2つの概念が基本をなす。1つには「住宅を供給する」という概念で、一段の住宅の供給、すなわち、住宅の大量の供給システム全体を指す概念である。もう1つには「(うまく)住まう」という概念で、供給された「集合の家」を「共同して」うまく住みこなし、適切に維持管理していく居 住システムをつくるという概念である[4]。

2. 私鉄資本による「郊外」のデザイン

この「郊外」の形成において、決定的な役割を果たしたのが私鉄資本である。 ここで東京圏における記念碑的事例として、東急電鉄による「日本型田園都市」の分譲事業を挙げねばならない。彼らは阪急の手法を参照しつつ、田園調布の開発において、駅を中心に放射状・同心円状に道路を配置する欧米流の都市計画思想を大胆に導入した。

ここで重要なのは、鉄道会社が単なる交通インフラの提供者ではなかったという点だ。 彼らは鉄道を敷き、その先に理想的な住宅地を造成し、ライフスタイルごと販売した。つまり、鉄道会社とは生活空間そのものを設計し供給する「街づくりの主体(デミウルゴス)」として機能したのであり、我々が抱く「豊かな郊外暮らし」というイメージは、この時期に企業の戦略によって人工的に構築されたものに他ならない。

3. 震災と「同潤会」:コンクリートの箱への順応実験

1923年、関東大震災が東京を直撃する。 都心部が壊滅する一方で、被害の軽微だった郊外住宅地は生き残った。この事実は、人々の郊外移転を加速させる決定的な契機となる。だが、震災はもう一つの「都市の原型」をも生み出した。

東京市民の約6割が住まいを失う未曾有の事態を受け、政府は財団法人「同潤会」を設立する。彼らが青山や代官山に建設した鉄筋コンクリート造の集合住宅(アパートメント・ハウス)は、単なる復興支援の枠を超えていた。 それは、木造文化で生きてきた日本人に、「集合住宅団地」という集住形式と、「洋式生活」という新たなOSをインストールできるかを試す、極めて野心的な社会的実験であったと言える。今日のタワーマンションへと至る現代のマンション生活の嚆矢は、間違いなくこの同潤会の事業に見出すことができるだろう。

青山同潤会アパート

首都圏の住宅供給史(2)-戦後の住宅供給-

「焼け野原で持ち家が倍増」の怪奇——戦後日本、私たちが家を買わされた本当の理由

1. 空襲で家が焼けたのに、なぜ「持家率」は倍増したのか?

戦後の住宅史における最大のミステリー。それは、焼け野原になった東京でこそ「持家」が爆発的に増えたという事実だ。データを見てほしい。太平洋戦争開戦時(1941年)、東京の持家率はわずか 25.2%。大半は借家住まいだった。ところが、終戦からたった3年後の1948年。その数字は 48.5% と、なんと倍増している。

「平和になったから家を買った?」

いや、違う。この現象は空襲被害が甚大だった東京・大阪・名古屋でのみ起きている。被害の少なかった京都や金沢では、持家率はほとんど変わっていないのだ(表1参照)。家が焼失した都市ほど、持ち家が増える。このパラドックスの裏には、「借りたくても借りられない」という絶望的な構造があった。

【表1:戦災と持家率の残酷な相関 *[4]より一部改編】

(被災した都市ほど、なぜか持家率が跳ね上がっている)

都市消失率(%)1941年持家率1948年持家率増加ポイント
岐阜74.2%39.6%69.9%+30.3
東京50.8%25.2%48.5%+23.3
横浜44.1%35.1%57.9%+22.8
大阪26.0%9.2%24.9%+15.7
京都(非被災)19.9%23.9%+4.0
金沢(非被災)33.4%39.9%+6.5

2. 大家を襲った「家賃統制」とインフレ地獄

なぜ借家が消滅したのか。第一の犯人は「地代家賃統制令」だ。

戦時中から続くこの法律は、戦後のハイパーインフレ下でも家賃の値上げを禁じた。物価は暴騰し、建材費も上がるのに、家賃は据え置き。大家にとって、賃貸経営は「やればやるほど赤字」のボランティアと化した。当然、誰も新しいアパートなんて建てなくなる。

市場から「賃貸」という選択肢が蒸発した結果、人々は雨露をしのぐために、「自力でバラックを建てる」「無理して買う」しかなくなったのだ。

3. トドメの一撃、税率90%の「財産税」

さらに決定的だったのが、1946年の「財産税法」である。これはGHQの指導下で行われた、富裕層解体に等しい措置だった。その税率はなんと最高90%である。

現金で払えない地主や家主たちは、泣く泣く虎の子の不動産を国に「物納」するか、二束三文で借家人に売り渡すしかなかった。つまり、戦後日本の「持家化」とは、個人の夢や希望の結果ではない。

「借家の供給停止」と「資産家の没落」**という二重の圧力によって、庶民が「家を持つこと」を強制された歴史的事故だったのだ。

4. 「持家志向」という名の生存戦略

こうして形成された「持家=当たり前」という構造は、不可逆的に進行した。

一度増えた持家率は簡単には下がらない。高度経済成長期に地方から若者が流入して一時的に下がるものの、彼らもまた結婚すれば郊外に家を買った。現代の私たちが信じている「いつかはマイホーム」という価値観。

それは文化でも国民性でもなく、70年前の「借りる場所がなかった絶望」が、制度として定着したものに過ぎないのかもしれない。


【ミニFAQ】

Q1. なぜ焼け野原で持家が増えたの?

A. 「家賃統制」で大家がアパートを建てなくなり、「財産税」で地主が土地を手放したから。「借りる」選択肢が消滅し、「買う・建てる」しか生きる道がなかった。

Q2. 「地代家賃統制令」ってなに?

A. 家賃の値上げを禁止する法律。借主には優しいが、結果として「新しい借家が作られない」という供給不足を招き、自分の首を絞めることになった。

Q3. 鉄道会社はなんで関係あるの?

A. 人が郊外へ逃げるのを見越して、鉄道とセットで住宅地を開発したから。「電車で通勤する」モデルは企業のビジネス戦略だった。

参考文献:

[1] タワマン(超高層マンション)の構造や容積率、資産価値について解説
[2] FRaU Web 平凡な私たちが到達できる“成功の証”…タワマンが人々の心をザワつかせる理由
[3] 窓際三等兵[作].グラハム子[画]『タワマンに住んで後悔している』(KADOKAWA)2023

[4] 住田昌二『現代日本ハウジング史-1914~2006-』(ミネルヴァ書房)2015
[5] 東急グループ:街づくりの歴史
[6] 三井住友トラスト不動産:田園調布の開発

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